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K-1と人の内心の変化

 猫が入ってはいけない場所、登ってはいけない場所に行き、飼い主が来るとすぐ逃げて、そんなことしていませんよ、という顔をしだす。変化というか成長である。そこで、にゃにゃっにゃにゃにゃにゃ~ん(ドラクエのレベルアップ音の節で)と猫が鳴くかなと思ったら鳴かなかった。

 K-1
 木村・フィリップ・ミノルvsクルーズ・ブリッグス
 1R。長年見ているが木村選手の動きが今までと違って、明確に早い。パンチを当てるときは早くて連打。避けるときはさっと逃げる。試合前にまだみんな緩急がないと言っていたが、それを体現するようなスピーディーな攻防を見せる。
 なにげない攻防の間からの右フック一発でKO。本人も初だと言うほどの一撃KOとなった。

 もちろん漫画みたいに試合中に進化したわけではなく、練習の時点でそうなったのだろうけど、人が一段階上に行く場面を見られた。才能ある人が厳しい練習と実戦経験の末にそうなるのだろう。
 
 人の変化で思い出す。人と話していて、近代文学以前と以降の話になる。どこが違うかというと心の描き方だと思われる。
 古代や中世にある物語は、神話や英雄譚であり、登場人物は神や王や英雄である。神は当然ながら、英雄や王は最初から英雄や王で、最後までそうである。内心は変化しない。

 近代文学の萌芽はシェイクスピアだろうし確立はそれぞれの解釈に任せます。そこでの登場人物は、普通の農民や職人や商人や役人や都市市民が多い。神や古代の王や英雄のような勇気や気高さや賢さを持つわけではないが、右往左往しながら事物を通して、最後には内心が違ってくるようになっている。今の創作で誰も意識しないけど、人の内心が変化して成長するのは現実の人間がそうだからそうなる、という発見である。内心の発見の原因はいろいろあるけど、一部には古代中世の人々には現代人が思うような内心、またはその言葉がなかったのでは、という説もある。

 病跡学的に考えると、最初から最後まで内心が変化し成長しない、古代神話の英雄や王はなんらかの心か脳の病気や機能障害があるのではないかと思われる。同時に近代以降の創作物より、古代の神話や英雄譚が好きな人は、人の心の変化や成長が理解できないのではないのでは、と推測している。
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