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師走とハロウィンとパノプティコン

 そういえばもう十二月である。早い。いろんな人からお歳暮やらなんやらをもらうが、なぜか和菓子が多い。おかきもあんこも私は苦手なんじゃよ。

 ハロウィンで車を横転させていた容疑者たちが、監視カメラ250台の解析で人物を特定、駅のカメラなどのリレー追跡で四人が逮捕、外国人を含む十一人が書類送検されていた。
 ひと昔前の監視カメラ導入時は、ベンサムのパノプティコン的監視社会を呼び、プライバシーや移動の自由が損なわれると言っていた人がいた。時は流れて、世界的な結論は安全のほうが大事だとなった。治安が命や財産、そしてそのまま健康寿命その他幸福につながるという研究結果もある。
 実験によると、人は不公正に対しては自分の多少の損ですら厭わず阻止しようとする心理傾向があるらしい。そういう公正を求む心が、トレードオフ条件においてなら犯罪を許さないほうを選ぶのは当然のように思える。

 もちろん、内心化された生政治に問題がないわけでもない。革新的には、では国家がナチスドイツのように間違ったとき、その治安は正しいのか、守ったままで間違いを正せるのか。保守的には、民主主義体制において正しい民主主義的投票によって独裁や宗教国家が選ばれようとするとき、正すことができなくなるのではないか。
 前者には、枠組みを越えた人道やら倫理を持ちだすしかない。後者も公安など超法規的な部署を置いて阻止するしかない。

 これを考えていると、ルーマンハーバーマス論争の一部、なにかを投票によって決めよう、という投票で決めることを投票によって決めよう、という投票で決めることを投票で決めることを投票によって決めよう、と合意形成が無限に遡ってしまう問題も出てくる。
 実際、最初は強引に根拠も投票もなく「投票で決めよう」ということを決めた。後から生まれた人が自分はそれに同意していないとしても、そう決めたとするしかない。
 ルールを正当化するルールは、枠の外の神やら憲法やら天与の自然法やらなんやらで保証するしかない。でも、それらもまた物理的に存在するものではない、単なる共同主観上でのもので「じゃあ内部を保証する、外部のそれの正しさを保証するものは?」と無限遡求を呼ぶ、ということがだんだん共通認識として出てくる。
 とりあえず都合がいいからあると仮定する、という態度もさていつまで人間社会で保てるのだろうか。
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