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早めにほどほどに2

 ふと連想。
 少し前から自分の力や努力でなんとかなるのではなく、外から与えられた力や、操るなにかで戦い競う創作物が増えてきたように思う。少しの程度は任意で。
 もしかすると、個々の努力や才能への幻想が、科学的に厳密に否定されていった時代ゆえの傾向なのではなかろうか。筋力や体格ならともかく、知能や気質すら遺伝要素があると分かった時代だと、だいたいの人は最初から何者にもなれないと分かってしまう。
先のサッカーおじさんのように自己幻想に浸るか、なにかの凄い力は与えられるものか、もしくは操るものでしか得られない、という諦念からの幻想へ耽溺するか、になっているのだろうか。

 輪るピングドラムというアニメでは「きっと何者にもなれないおまえたちに告げる」という台詞がある。台詞の解釈のふりしていろいろと自分語りもできる、便利な台詞でした。
 一面の解釈として、ほとんどの人は何者にもなれない。私もなれない。それでも「何者かになる」をどう定義とするか。何者とは、他の誰かと交換不可能なスペシャルな自分、とでもしておきましょう。
 そうすると、政治家や医者や弁護士、さらには芸能人やスポーツ選手やアイドルですら、ほとんどが何者かにはなれない。どんな職業や立場でも、そこで交換不可能な何者かであるにはとんでもない才能と勤勉さその他が必要で、たいていの人は何者にもなれない。
 私やあなた、ほとんどの有名人が消えて死んでも、すぐに代役が出てくるし、さらに言えば代役すら出ずに世界はこれまでと同じように続く。天才や英雄や名君がいないと滅亡するような組織や社会や国家にならないように、近代のすべてが設計されているからでしょう。

 交換不可能な何者にもなれないならどうするか。たいていは私生活、仲間や家族、各種趣味で気晴らしをして日々をすごせばいいとなる。
 何者かにならなければ! というのは義務でもなんでもないので、目指すのは強迫観念でしかない。最初から不可能であることを目指すよりは、いろいろなものへと自尊心と依存対象を分散したほうがリスクが低い。そして健全ではないかなと思う。

 それでも記名された誰かにとっての何者かになりたい、と脅迫観念に従うとしたら、本人以外では成立しない恋愛や家族などの人間関係くらいしかない(誰かの恋人や夫や妻、父母や祖父母や子供や孫、兄や弟、姉や妹であることは交換できにくい)そこですら才能と努力が必要で躓く人が多いというのに、そこにしか可能性がない理不尽。これも早めにほどほどの所に落ち着けておいたほうがいいのではと。

 ……気づいたけど、作家としての好感度上げや作品の宣伝に一切なっていないブログですね。ええと、創作アイディアの羅列だとしましょう! した!
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