FC2ブログ
Gallery

ヒーローの日と、ヒーローの条件とヒーロー好きの差

 1月16日でひいろ、ヒーローの日らしいです。
 ダークナイトのバットマンがかつて自分を助けてくれた警官に聞かれて
「A hero can be anyone.Even a man doing something.as simple and reassuring... ...as putting a coat around a young boy's shoulders to let him know... ...the world hadn't ended.」(誰でもヒーローになれる、特別なことをしなくても。両親を亡くした少年の肩に上着をかけてやり、世界の終わりではないと励ますような男のことだ)
 と答えた以上のヒーローの条件はないやろと思います。

 なおヒーロー好きに糞迷惑を受けたことがある。ヒーロー好きの人が少しもヒーローっぽいことを実行できないのはまだ仕方ないが、他人に害をなすなら、その好きという感情はお菓子が好きレベルで、見る意味ないんじゃねえのと思っている。どちらかというとその精神性はヴィランだ。
スポンサーサイト

趙雲と阿斗

 INFLAMES TOYS & NEWSOUL TOYSという会社なのか二社が組んでか出した、1/6スケールの趙雲&阿斗フィギュアを買いました。
 IMEの変換で阿斗が出るので、ちゃんと名詞として認識されている模様。

左から 
 左から。直垂や袖鎧のモールドは一発成型ではなく、別パーツの組み合わせという狂気の精密さ。縁取りもちゃんと布です。

 右から
 右から。槍も大きくて満足。マントも針金が入って母衣のように表情がつけられます。

阿斗と
 蜀滅亡の遠因の阿斗、じゃなくて後の劉禅と。
 なお、私は趙雲にまったく思い入れがなく、単純に中国武者が欲しかったのです。前の信長像といい、海外メーカーの1/6は頑張っているというか、頑張りすぎている。好き。
 同社の張飛と関羽も凄く良いのだけど、知ったときにはプレミア価格になっていて諦める。

プラシーボボタンによるあえての錯覚

 プラシーボボタンというのがある。本当はコントロールできないことを、できていると思わせるためのボタンだそうな。
 事例としては、アメリカの1990年代のエレベーターの閉スイッチはなんの効果もなく、時間どおりに閉まるだけ。ニューヨークの信号の大部分の歩行者押しボタンは、作動しないようになっている時間が多い。オフィスのサーモスタット制御装置もダミーボタンが多かった。だけど押す人が多く、みんなコントロールできていると思って、不満が減る。
 なんというか、社会のいろんなこと、人権や自由、選挙の投票なんかもプラシーボボタンのようなものではないかと思えてくる。

 絶望感を煽っているのではなく、自分にコントロールできることと、どうしてもできないことを見極め、後者に対して必要のない不自由感を感じないほうが気楽ではないかと思うのです。
 または人生の理不尽に対して個人的なプラシーボボタンを作って、コントロールしていると自分を騙すのも、時には悪いことではない。人類は神やおまじないやルーチン、絶対の信条などの気休めに頼ってきたのだから。あえて繰り返すが、時には、だけど。

 そしてこの文章全体が私のプラシーボボタンである。たかが文章で誰かの心が良い方向に変わる、ということはほぼありえない。邪悪や狂気や怠惰や貪欲、心の偏りや病気が言葉で変わると思っているなら、それこそコントロールしていると錯覚するプラシーボボタンである。が、その錯覚ボタンを押し、押しつづけるのが仕事でもある。

消えた天才と、哀れみを受ける辛さ

 消えた天才。野球の松坂選手をリトル時代に差し置いてエースで四番だった人が、中学で野球を辞めた。
  理由が、離婚した母親を働いて助けたかったからというのが悲しい。本人もこれだけはチームメイトや監督に言えなかったそうだけど、日本野球界的にはかなりの損失。おそらくそういう事情で消えていく才能って多くあるのだろう。
 これを周囲の人の善意で、とすると本人のように言えなくなる。顔の見える誰かに哀れまれてお恵みを受けるくらいなら、とまともな子ほど拒否する。そこはもうシステムとして国家の奨学金やらなんやらで助けてあげてほしいなと思う。

 私もそらまー人生で人に助けてほしい時期は何回もあった。が、助けを請う人を度々間違い、みじめな思いをするだけで助けてもらえなかったので、助けを求めずなんでも一人でやる路線になってしまった。なんだかろくでもない大人ができるだけなので、次の世代がそんな思いをする必要が少しでも減ればいいと思う。いや、本当に。

今日の映画

「ソナチネ」
 久しぶりに見る。今でも露出が多いから比較しやすいが、北野武氏や役者が若い。
 初期北野映画のヤクザ話。特徴は今更言うべきことでもないが、同じ組織内ですら利権を巡っての殺し合い。舐めた舐められたで刺した刺されたになる。暴力に技も華麗さもなく、拷問で人が死んでも「死んだかな、どうでもいいや」となる。技を競うようなかっこいい暴力は現実にはないという態度。
 そして客にお茶を出すのに四人がかりという、普通に働くことが難しい、できない人たちであることが合間合間に表現される。

 現実にもいるそういう人たちでも、他人に頭を下げて社会福祉を受けて生きたくないという場合、受け皿がない。
 もちろん作家などという浮き草商売をやっている自分にも跳ね返る。生涯が保証されるか人生が上手くいっている人以外は、そういった居場所のなさを感じるはず。あえて居場所のなさを見ずに生きていても、いずれどこかで見ないとならない。

「ものすごくうるさくて ありえないほど近い」
 賢い男の子へ、宝石店を経営する父親がかつてあったニューヨーク第六行政区を探す問題を出す。名刺を持って少年はニューヨークを調査探検する。
 そして911事件に父が巻き込まれ、留守電にメッセージを残し、死ぬ。少年は父の遺品の鍵を見つける。鍵に合う鍵穴を探す調査探検が始まる。自傷行為を始める少年と、祖母の家の間借り人である話せない老人が出会う。老人は少年の祖父であり、子を失った老人と、親を失った少年の探査行が続く。ついには鍵の真相が解き明かされ、最後はとてつもない愛情を知る。

 現代日本の生き辛さの一因は、悲しみや苦しみに寄り添う思考や言葉を避けがちというのもあると思う。誰もが場面の定型句に合っているかどうかを気にして、また酒飲んで楽しいことして忘れよう、とそのものに向き合うことがあまりないんじゃないかと。